2024年9月16日。悲しいニュースを見た。
ヤマハ発動機の社長さんが、娘に○されかけた。
命に別状はないとのことで少し安心した。
ただ、その後にX(Twitter)を見ていると、娘と思われるアカウントが苦悩をつづっていた。
「100%娘か」と言われたら確証はできないが、高い確率でそうだと思う。
本題から離れるので、本物かどうかについてはここから触れないようにする。
もし娘だと仮定したらこんな感じだ。
- 33歳で無職(僕の1歳上)
- 双極性障害+ADHD
つまり、どういうことか。
僕もあのとき「この仕事や仲間」と出会えてなかったら、同じようになっていたかもしれない。
そう思うと、他人事だと思えなかった。
生きづらさとパワハラでうつ病に。発達障害の傾向も
僕は長年、生きづらさを感じていた。
いわゆる「毒親育ち」で、親は外の評価ばかり気にしていた。
自分の本音を出せるわけもなく、ずっとモヤモヤしていた。
特に「モテ」にはうるさかった。中学から大学院まで男子校なのに。
そんな感じだから、自己肯定感は地の底のまま、社会人になった。
親の期待に応えようと、なんとか頑張って大企業に入った。
むしろ「大企業に入れる人を分析して、そうなるように頑張った」というのに近いのかもしれない。
けれど、生きづらさは変わらなかった。
会社でなじめず、上司からもパワハラを受けた。
実家では親が不倫してたし、ゴミ屋敷だから帰る場所もない。
そして、社会人3年目にうつ病で休職した(正確には最初は適応障害で、数ヶ月後にうつ病に悪化し再休職)。
そのときに、グレーゾーンではあるが「ASD」とも言い渡された。
生きづらさの原因がわかって涙するとともに、「一生向き合っていかないといけないのか」という気持ちにもなった。
転職で250社落ちたのに頑張れたのは「好き」「得意」に気づけたから
適応障害のあとにうつ病になり、元の会社に戻って3度目の再発は本気で避けたい。
親の期待を捨て、自分の人生を取り戻すべく、転職活動を始めた。
だが、結果は「250社落ち」という散々たるもの。
2020年の春で某ウイルスが流行った時期とはいえ、自分の実力不足とうつ病への風当たりの強さを痛感した。
▼当時の記事はこちら
関連記事:20代うつ病上がりの転職レポ①:不況が本格化する前から始めてたけど、時すでに遅しでした
絶望していたある日、「高校生から5年間、毎日ネットで日記を書いていた」というのを思い出した。
親の期待で理系の大学に進んだが、思いを文章を書くのが好きだった。
また、知人が「副業でWebライターをしている」と話していたのを思い出した。
これだ、これしかない……!
こうして、ブログとWebライターでフリーランスになることを決意。
けど、最初の1年は本当に大変だった。
1回やめようかと本気で思ったこともある。
ただ、そんなときにたくさんの人が助けてくれた。
- うつ病で倒れたときに、支えてくれた祖父母
- 復活を応援してくれた学生時代の友人たち
- 一緒に頑張るブロガーやライターの仲間
おかげで、もうすぐ社会復帰して5年目になろうとしている。
けど、僕も同じ道を歩んでいたかもしれない
ただ、思い返すと、どこかで道を踏み外してたら僕も同じだったと思う。
うつ病で休職したとき、祖父母の家ではなく実家に戻っていたら。
転職で250社から落とされて、社会復帰の道をあきらめて引きこもったら。
一緒に頑張れる仲間がいなかったとしたら。
想像しただけでゾッとする。
だからこそ、他人事のように思えない。
親や親族からの期待
親が優秀なだけに大きい周囲からの期待
期待に応えるためにしんどい思いを隠す「生きづらさ」
自分と重なる部分が多くて、1時間ほど何も手につかなくなった。
そんな経験もあって、最近では「金持ちの家か否か」に意味が変わった「親ガチャ」が当たりなんて、とても言えないと思う。
「(金銭的な)親ガチャがSSRだから甘えるな」なんて言葉で片付けられないんじゃないかな。
社長さんが無事にもう1度デスクに座れる日が来てほしい。
そう思うと同時に、世の中が変わって娘さんのように悩む人の生きづらさが少しでも減ってほしい。
僕は心から願いながら、週に1度はやる「野菜炒め」を作ってきます。
つづく。