2年半前。
当時、ぼくの顔は写真のようにやつれていた。
何を隠そう、このときはうつ病で休職する2日前。
まだ頑張れると思っていたけれど、油断すると仕事中に涙が止まらない。
「もう限界だ……」
そう思って、助けを求める。
真っ先に電話をかけたのは実家ではなく、おばあちゃんの家だった。
ぼくは生粋のおばあちゃんっ子だった
思い返せば、ぼくは生まれてからおばあちゃんっ子でした。
奈良県の実家から車で1時間で行ける、大阪府寝屋川市。
2週に1回は遊びに行ってたと思う。
ゲームして遊んだり。
家の近くのレストランに行ったり。
河原にバーベキューしに行ったり。
公園で開催される夏祭りにも、毎年のように行っていた。
そして、おばあちゃんの家にいたときが1番、誰かに愛された実感があった。
過去にこの記事で書いたように、実家が成績でしか評価されない環境だったから。
(詳しくは、別ブログの「【つらい】愛着障害の人は恋愛依存になりがち?」の記事で紹介)
大人になってからはあまり帰省してなかったけど、ときどき連絡を取っていた。しかもLINEで。
スマホを使いこなせる80代半ば、ほんまにすごいと思う。
療養中、誰よりもパワハラ上司に怒っていた
そんなぼくが療養のため、おばあちゃんの家に足を運んだとき、驚きを隠せなかっただろう。
よくしゃべる孫が、あんなやつれた顔をして帰ってきたから。
しんどくて1日中寝てたときも「甘え」とだけは言わなかった。
食欲がなくて「ご飯食べられない」と言ったときも、きつく詰め寄られることはなかった。
これだけでも今となってはありがたい。
ある程度調子が良くなってきたころ、少しずつぼくが受けていたパワハラについて話す。
「なんであの上司だけ、のうのうと働いているのか」と腹を立ててくれたことを覚えている。
「訴えたらよかったかな」と今でもたまに口にするけど、そのたびぼくは「もう大丈夫」と返している。
変に関わりを持つことになるし、今の仕事に支障をきたすから。
休職中、会社の人がうちの近くのカフェまで来ると言ったときも。
20代うつ病上がりの転職レポで書いたように、不採用通知ばかり届いて落ち込んだ時も。
陰で支えてくれたことに感謝でしかありません。
フリーランス1年目を語るには欠かせない
転職先が見つからなかったこともあり、フリーランスになることを決めた。
おじいちゃんが大企業で出世したという経緯もあり、最初はすごく反対された。
ぼくもうつ病で倒れたときに働いていた大手。
周りからも花形部署と言われていて、そのキャリアと肩書き、企業の安定さを全て捨てることになる。
ただ、今は終身雇用が当たり前じゃない。
それにうつ病そのものが再発しやすいし、会社の雰囲気と性格が合わなくて苦しんだから、ほぼ100%に近い確率で再休職する。
加えて、機械設計エンジニアの仕事も好きになれなかった。
このようなことを話した結果
「あんたの人生だから、自分のやりたいことを選んだらいい」
と後押ししてくれたのは今でも覚えている。
フリーランスになってからも色々あったけど、陰で支えてくれた。
特に思い出深いのは、「1度貯金が底をつきそうになって、会社員に戻ろうとした」とき。
これ以上迷惑をかけたくない気持ちから「会社員に戻ろうと思う」と話した。
正直、同意されるかと思ってたけど……。
「もうちょっと何とかなれへん?あんたが頑張ってるの見てるし、売上も伸びてきてるやろ?」
と言われて驚いたし、すごく励みになった。
このできごとがあった2か月後に月商30万円を突破。
おばあちゃんからの支えや応援がなければ、間違いなくここまでこれなかったと思う。
ひとり立ちが1番のプレゼント
うつ病で倒れて、フリーランスで社会復帰。
27歳で一人暮らしをやめるのは、正直罪悪感や悔しさがあったけど……。
今思えば生き方を見直すための通過儀礼だったと思う。
その過程で、おばあちゃんにはたくさん助けられたし、寝屋川市という町にも救われた。
数か月間、副業でウーバーイーツ配達員をしていて、たくさんの人から感動や感謝をもらったから。
そして、ときどきおばあちゃんにプレゼントをあげようとするけど、こういって断られる。
「あんたの成功と独り立ちが、1番のプレゼントやで」
もともと、一人暮らしとして今年中に地方移住しようと考えてた。
(詳しくは地方移住したい理由を考えたら、1つの原因に行きついた話で紹介)
けど、偶然か必然か年末に彼女と出会い、このたび同棲が決まった。
思わぬ方向と違った道だけど、1番の恩返しができたんじゃないかな。
2年半で受け取った思いを胸に、これからも「じぶんぽっく」進んでいきます。
以上、大阪府寝屋川市から、思いを込めて綴った最後のブログです。
今日も1日、生きててえらい!
▼彼女との出会いや同棲について発信しているブログはこちら